先週に引き続き今週も勤務先の学校へ行ってきました。というのも、本日は体育大会という大きな学校行事があるということを知っていたので、プログラムの中で見どころとされている応援合戦の時間に合わせて、昼過ぎに家を出ていざ来校。
長居するつもりは全くありませんでした。かまってちゃんのように思われたくなかったというのが一番の理由です。そこは久々の交流に時間を割いてもいいんじゃないかと思われるかもしれませんが、少なからずそれなりの人数の生徒がぼくのところへ話しに来るだろうということは容易に想像できます。変わった性格からか、ドライでサバサバな一面があるからか、体育大会という一大イベントで、育休中の自分が少したりとも目立ちたくなかったという謎のこだわりが発動し、応援合戦の約30分間のみの滞在で学校をあとにしました。それぞれ役割の当たっている先生方の邪魔をするのもあれですし。
なんでしょうね、自分が中学生、高校生、そして50代であっても、きっと同じ行動を取っていたと思います。なるべく目立ちたくない、そういう性格なんだ、ということで。もちろん、TPOによって目立つときはとことん目立ちに行くのですが、体育大会はどうやら違うようで。スポットライトは、片時も自分なんかではなくて、常に生徒たちに当たるべきです。
そのため、一部の生徒と教員としか触れ合っていません。それでも今年度の管理職陣にあいさつできたのでとりあえずは良かったのかなと思います。
また応援合戦では、自分が担当していた学年の生徒たちの姿を拝見できたので良かったです。良い意味で変わってなかった、それだけでお腹いっぱいです。
30分間ではありますが、10人くらいの先生方と談笑することができて、その中の何人かの先生とは、生徒や学年に関する少々ディープな情報交換をしました。「自分がいなくなったこと」で機能不全になっているところもあるように思えました。もちろん直接そう言われたわけではないですし、険悪なムードには1mmもなってませんが、そう推測はできます。
「機能不全になった=自分が優秀だった」ということではなくて、自分が「次にうまく引き継げていなかった」わけであり、また、安藤広大さんが言う「属人化」に向かって、自分は去年働いていたんだろうなと思い、少し落ち込みました。そして、自分の(全般的にではなく)部分的に甘々だった学級経営が、現担任の負担にもなっていることを察する場面もありました。「全てが自分のせい」と思い詰めているわけではないので、ものすごく落ち込んではいないです。教育は1本の糸のようなものであり、そのときそのときのライフステージにおける環境で、良くもなり悪くもなります。
昨年度末に反省のブログを書きましたが、自分が直すべきポイントを今日改めて痛感しました。ただ何度も書くように、「お前のあのときの指導が悪かった!」と誰かに言われたわけではないし、今日は生徒含め、職場の先生方に温かく迎い入れてもらったのは事実で、本当に和みました。談笑の中で「ということは、、」と自分の中でいろいろと繋がり、少々感傷的になっているだけです。
来年度に向けて教育観、教師像を確立させておく必要性を感じました。