学校にリミットさえつくれば改善するのが残業問題

学校種によっては20時や21時まで残業をさせられる、あるいはしなければいけない選択に迫られるのが教師という職業らしく。

 

「日常的にこんな時間まで働くなんてぼくには(精神的に)無理だなぁ」と思いつつも、「どうすればその問題を解消できるか?」とも考えます。

 

自分の勤務先は、「19時になると完全退勤」となっています。というのも委託している警備員の見回りが始まるため(17時には始まっているが)、生徒はもちろん、教員だから残っていいという風な例外なんてなく、その時間になるまでには、誰一人として校内に残ってはいけません。もちろん高校入試の採点業務がある日などは残れるのですが、そういったものはあくまで例外中の例外です。

基本的には勤務時間のリミットが設けられています。

この絶対的なルールのおかげで、自分は働かせ放題にならずに済んだとも思ってます。

 

前勤務先の特別支援学校は、高校に比べてせわしない日常を送ることはなく、ゆとりをもって働くことができていました。ほぼ毎日定時退勤が実現できたのもそのおかげで、職場の文化に依る部分が大きかった。

 

でも、「この時間までに学校を出なければならない」という明確なリミットはなく、基本的には教頭などの管理職が最後まで残っていて、「そろそろお時間ですよ~」というアナウンスがかからない限りは残ることができていました。早い話が、「管理職がその日に終わらせなきゃいけない業務量次第」といったところです。あと、予算の都合上、警備員が配備されていなかったので、学校の施錠に管理職が最後まで残らざるをえなかったというのもありますね。

(ただ、当時は学校イチ出勤が早かったぼく(6:40頃)が朝の学校を開錠をしていたので、すべてが管理職でなくてはならない、というわけではなかったと思いますが)

 

一方で、現勤務先の管理職はその時間(警備巡回が始まる19時)まで残ってることがほとんどありません。ぼく自身、昨年度一年間働く中で、そんなに遅くまで残っていた記憶は10日あるかないかくらいなのですが、管理職が最後まで残っていたのはせいぜい3回くらいでした。だいたいは18:00〜18:45には退勤していました。

 

職員室の締め作業(電気を消す、窓を閉める、キッチンの簡易掃除などの最終チェック)は平教員らでやってしまってOKで、そこに管理職は不関与でした。学校の最終施錠は警備員だったからというのもありますし。

 

ここまで書いて思うのは、残業問題の改善(解決ではなく)にはやっぱり「学校に残れる時間的リミットを設けること」が必要で、シンプルかつ即効性があると思います。それも、「可能ならでいいから」という生ぬるいもんじゃなく、より強制力が高く、絶対性があるもので縛りをつくることが大事です。「教員らが残ってちゃ話にならないよ」と誰かに多大なる迷惑をかける仕組みづくりが大事だよなぁって。

 

そういうとこから「これじゃ仕事できねーじゃん」という不満の声がうまれ、「これ、やめない?」という業務削減の動きがあって、結果的に残業を減らすことができると思ってます。対処療法ですが。

「部活の時間がー」とか「担任業務がー」とかじゃなくて、「学校がこの時間には閉まっちゃうの、どうしようもないの、以上。」というシビアといいますか、見放すような態度が必要で、それがないと何も始まらないわけで。

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気を抜くとケガさせるのが育児

どうやら昔は「こどもは神経などの機能が未発達のため、痛みを感じにくい」と考えられていたようですが、現在ではこどもは生まれた時点ですでに痛みを感じる機能をもっていることで知られています。

つまり、大人にとって痛いことは、生まれてすぐの子どもにはむちゃくちゃ痛いというわけです。

 

自分の子どもと接していると、たしかに「痛みに鈍感なのかな?」と感じる瞬間があります。少なくとも、多少の痛みにはあまり反応を示さないことがあります。そのため、「痛みを感じにくい」と当時の人が考えるのも、わからなくはないなと。

 

そんな昨日は、妻が外出している間の1時間程度、自分の部屋に移動式ベッドを持ち込み子守をしてました。

 

ベッドの側面のチャックを下ろすことで片面を開放することができることを思い出しまして、頭を撫でながら読書をしたかったので、その作業に取りかかりました。

説明書を読まなくてもできる難易度だったので、直感的に各パーツをいじり、あとは手すりのような棒を外すだけという段階まで漕ぎ着けました。

でも、グッと持ち上げるが、一向に外れない。結構力を入れるが外れない。3回目の力みでようやくその棒が持ち上がるのと同時に、反動で下方向に力強く引っぱられました。

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その動きにすぐに反応できずに、息子のおでこにその棒が直撃。

 

当たって1秒くらいは唖然顔。で、そのあとにぎゃん泣きの嵐でした。

だいたい縦に抱っこをすれば泣き止むのですが全くおさまらず、相当痛かったのだろうなぁと、言葉の通じない息子にひたすら謝り続けました。

 

瘤(こぶ)や傷はできておらず、打撲による薄めの赤い炎症ができたので、すぐに保冷剤でケアしました。そのおかげでいつも通り今は過ごせてます。

 

ただ、そこから数時間は、妙にハイになっていて、発話数が爆発的に増えていたので、彼の中に眠る何かしらのボタンを押してしまったのかなと少し心配になりました。アニメとかだと母国語をはじめ、言語能力が飛躍的に上がるのですが。

 

 

親として、自分の不注意による怪我は最低限に抑えたいので、これからはより一層気を抜かずに育児に励みたいです。

合理的なもらってうれしいもの

送別会などでもらう寄せ書きについて思うことをば。

 

ぼく自身、寄せ書きを最後にもらったのは大学での部活の追いコンにて、だったはず。高校や中学でも貰いましたが、学生時代に貰うのは、それはそれは嬉しいもので。

みんなの思いが詰まったものですし、何より形として残っている感じが好きでした。

 

でも大学生以降、寄せ書きにあまり魅力を感じなくなりました。幸いにも、大学院生や社会人になってからはもらうことはなくなりました。

 

作る側に回ったことはあります。もちろんぼくからの提案ではなく。

 

ぼくは「寄せ書きって要るのかしら?」と思うようになった人間でして、「メッセージなら個人的な手紙でよくない?」と思ってしまいます。寄せ書きだとどうしても文字数制限等の関係で、当たり障りのない内容しか書けない、深い内容が書けないというエラーが生じます。それに、貰ったことがある経験者から言わせてもらえば、「おそらくこの子、ぼくに対して書くことないけど一生懸命書いたんだろうなぁ」「これといったエピソードがないから無理やり書いたんだろうなぁ」と感じる瞬間は不可避で、お互いにマイナスの要素が生まれちゃうよねというのは物心ついたころから気づいてました。

 

「みんなで書こう!」というあの同調圧力や、親切じゃないあの感じが苦手で。

「(心の底から)書きたい人が書く」という流れがそこにはないので、受け取る側からしたらちょっと申し訳ないです。「自分のために時間とらせて悪いな」と。

 

また、個人的には、寄せ書きのような色紙はどうしてもかさばる、ゆえに、保管に困ります。個人的な手紙でないのなら、極端かもしれませんがデータでお願いします、と内心思っていて。それこそLINEでのメッセージ、動画とかならいいなぁと思っていたりいなかったり。

 

でも例外はあって、写真の裏面に書かれた寄せ書きはオシャレだなとは思います。それは貰ってうれしいかもしれません。

 

なんていうものすごく面倒くさい考え方してます。

分かってくれる人は少数いるとは思いますが。

 

それで言ったら、引き出し物とか誕プレもそう。

 

相手が何を欲しているかわからない中で、無難な皿とかコップとか電化製品を送るより、カタログギフトをポンと送ったほうがものすごく合理的だと思います。好きなものを選べるって最高じゃないですか。

たしかに、形あるものを貰った瞬間はうれしいのですが、帰宅後だったり、素に戻ったときに、「うーん..」という微妙な感情になるのは事実でありまして。

体裁を整えるためとか、慣例主義だからとか、その場を盛り上げるためにとか、そういったものを排除して、相手が喜ぶことを本気で考えたら(相手が本当に欲しいものが不明な状況のみ)、カタログギフトしか勝たんとさえ思ってます。もちろん一番は現金ですが。

人との関係性にも依るので、一概には言えませんが。

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今週の振り返り

息子は生まれた時点で髪の毛がまま生えてました。髪がそこそこフサフサで、なおかつ柔らかいもんだから、添い寝のときに猫のように自分の顔面をゴシゴシ擦り付けてます。気持ち良過ぎてやめられません。これで禿げないでもらえればいいのですが。

 

1週間はあっという間で。先週の花見が昨日のことだったとさえ思えます。

 

そんな今週は特に変わった過ごし方はしていなくて、スーパーに買い物となればいつも通り3人で行ったくらいで。買い物がもう特別なイベントじゃなくなりつつあります。チャイルドシートや抱っこひもにセットすることが何も特別な行為じゃなくなってきているからでしょうか。苦戦することなく淡々と行えるようになりました。それでもチャイルドシートのヘッドクッションに顔がぎゅうぎゅう状態になる瞬間はいつ見ても和みます。

新しいことも回数をこなしていけば日常に溶けこんでいくんだなぁとしみじみ。

 

そういえば、今週はいろんなものを買いそろえた1週間でもありました。ベビーカー(抱っこだけで外出するにはそろそろ腕がきつい)、抱っこひも(今までは室内用でなんとか凌いでましたが、今度は外でも使えるもっとちゃんとしたやつ)、厚手のラグマット(寝返りなどの行動範囲が広がることに備えて)などを買ったのに加えて、自分用にドリップコーヒーの買い足し、電動シェーバーの新調などなどをしたら裕に10万を超えてしまって、来月のクレジット支払いに戦々恐々しております。たまたまヘビー級のグッズが集中しただけで、普段はこんなんじゃないじゃんか、と自分の背中をさすってます。

 

そうそう、ダラダラな生活に区切りを打つために新習慣として「朝散歩する」「(必要に応じて)昼寝をする」を宣言してましたが、5~60%の出来だったなぁと振り返ります。夜中に2、3回起きたうえでの寝起き朝散歩は正直しんどくて、二度寝してしまうこともありました。ただ、起きてしまえば活動開始できたのも事実。こちらも慣れの問題だよなぁと思います。でも引っかかっている点があって、散歩ができたとしても日中はボーとしてしまうこともあるし、昼寝がうまくできないまま夜まで過ごすので、中身のない1日になってしまったりと、なんか惜しい過ごし方をしてます。

こればっかりはトライアルアンドエラーですね。

 

そんな感じですが、変わらず育児もとい育休を堪能してます。この子は21時ころになると寝静まるようで、そんなときはソファに置いて彼を眺めながら暖色系の照明の下、読書をするのが最近のマイブームです。

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これからもタブーであるべきで

以前、『SAMANSA』という世界中のショート動画を集めた映像配信サービスのサブスクに登録してました。これがなかなかコスパよくて、月300円程度でいろんな作品が見放題です、それも何かしらの賞を受賞している作品が多いこと多いこと。

(ただ、半年前に退会してしまいました。日常的に見る時間をなかなか取れずにいたので。。でもおススメです!)

 

その作品の中に『ザ・ドールメーカー』という作品があり、それがものすごく印象的でした。幽霊が出ないタイプのホラーで、どちらかというと、タモリさんの『世にも奇妙な物語』に出てくるストーリーに近いかもしれません。

 

ネタバレが含まれますが、あらすじとしてはこんな感じ。だいぶ前に観た動画なので、細かい所までは覚えてませんが。

事故でひとり息子を亡くした夫婦が、「人形に魂を宿らせて、亡くなった子を生き返らせることができる男」と出会います。その夫婦は、その男と契約を結び、亡くなった息子を見事、生き返らせることに成功しました。

でも、その契約にはルールがありました。

・人形を制限時間内(たしか3分間)に必ず所定の場所に戻す

・時間さえ守れば何度でも息子に会うことができる

・時間を守れなかった場合、自分らの身にまずいことが起こる

 

これらのルールさえ守ていれば、さっきまで人形だったはずのモノが、亡くなったはずの息子というヒトに変わり、半永久的に息子と過ごせます。

こういった条件下で、その夫婦は以前のような幸せな生活を取り戻すことができました。

 

でもある日、妻がそのルールを侵してしまいました。息子が愛おしすぎて、所定の場所に戻すことを怠り、時間を超過してしまったのです。

 

でも妻には特に変化はりませんでした。むしろ、時間に拘束されることなく、息子と永久的に過ごすことができていました。

一方で、ルールを侵していない夫はその瞬間から絶望的な日々を送ることになりました。

というのも、妻が、「ただの人形」とおままごとのような生活をするようになってしまったからです。

「ただの人形」にひたすら話しかける、「ただの人形」にご飯を与え続ける、「ただの人形」に服を着させるなどなど。第3者からしたら奇行でしかありません。でも、妻は大まじめに一人の生きている息子として接しているし、子育てを楽しんでいる。

それをひたすら見せつけられる夫。

そんな不気味なストーリーです。

samansa.com

 

でも、考察すれば、はなからその息子は生き返ってはいなかったんだと思います。その夫婦二人が、3分間の甘い夢という名の妄想に浸っていただけで、一種の現実逃避。そして、いたずらに時が止まってしまっていたのかなと。

 

 

そのストーリーと今回のこの記事を重ねてしまいました。

newsdig.tbs.co.jp

「映像で」ではありますが、AIで死者を復活させるというもの。

 

「一度死んでしまったものを復活させること」、これを人間に施す行為や考え方に、どこか抵抗感があります。もちろん、叶うもんならそりゃ嬉しいのですが。。

どう頑張っても、死んでしまったら完全に再生させることができないのが人間であるはずです。ほら、細胞の数や性質が少しでも違うと、姿形がほぼ一緒でも、ソレはもう以前のソレとは違う生き物なわけで。

 

儚い命を宿した人間という生き物、だからこそ美しいんじゃないかというクサいようで、でも核心を突いた信念があるからそう考えているのかもしれません。

 

それに、過去に執着し過ぎることに意味はあるのか。

時折、過去に浸るのは良いと思います。でも、執着のあまり、自分の人生にストップをかけることは果たして本当に良いことなのか。

 

「多様性だからいいじゃないか!」と言われてしまえば何も返せませんが。育ってきた環境が違えばなおさら。

それこそ、これまでの人生で、幸いにも、自分の身近にいる大切な人を亡くした経験がありません。

また、『鋼の錬金術師』のようなアニメ(死んだ母親を生き返らせようと旅に出る主人公の話)で「死んだ人は生き返らない」という答えを幼い時に知り、その価値観で生きてきました。

 

でも、多様性だろうがなんだろうが、その倫理観だけは崩しちゃダメだろ、とは思っちゃいます。