教師の中途半端な介入に思うこと

地域にもよると思いますが、この時期は高校で学祭があるようで。

 

育休中の今年はちょうど予定が入っているので、勤務先の学祭には行けませんが、生徒も教師も楽しめるイベントになっていればいいなぁと思います。

 

 

ここでふと、学校における「楽しめるイベント」ってなんだろうなぁと改めて考えてみることにします。ぼく的には「教師の介入を限りなくゼロに近づけた上で実現できるイベント」なのかなと思っています。もちろん生徒にすべて任せるとなると、いくら「生徒集団を信じる」と言っても必ずいろんな危険が伴うので、そういったものは大人である教師あらかじめ対策をするのは大前提。でもその危険の伴うもの以外は基本的には任せきってもいいと思ってます。危険の基準は、「大事故につながるか否か」ですが、この1文だけじゃ解釈の幅が広がりすぎて、十人十色もいいところ。ゆえに、マジカルバナナと言いますか、芋づる式に「これがダメならあれもダメになるよね」と、なんだかんだで制限が増えていき、気づけば息苦しいイベントになってました、なんてことは常識だったりします。

 

 

生徒の主体性を重んじるという意味で「任せきってもいい」ということはだいたいの教育者は理解しているのですが、ここはやはり「どこまで任せるか」は人それぞれのメーターがありまして、任せる度合いが全然違っていたりします。

 

 

ぼくなんかは現場で働いていると、往々にして「あれ?生徒たちに任せるんじゃなかったんですか?」と感じることがあります。そのたびに、周りに比べたら自分は結構ガバガバガバナンスなんだなと痛感します。「(事件にならない程度に)失敗させる機会が教育で一番大事」と思っているので、その考えに他者と距離があればあるほど指針に食い違いが生じても仕方のないことなんですが。

 

 

とはいえ、微妙な距離感で生徒の活動に携わろうとすると、それはそれはおかしな成果の一丁上がりです。生徒の世界観に教師の世界観が介入しちゃうもんだから誰も意図していないものになって、「てか、なにこれ?」という、決して芸術ではない、そしてプラスにもならない珍百景に最終的には出くわします。

そういう意味では、多少のスリルはあるかもしれませんが、生徒たちを封じ込めようとせず、思い切って任せる、これに尽きるなぁと思ってます。

 

 

教師の執拗な介入はもちろん、圧力に近い茶々は、「フルーツたっぷりの、そのままでおいしくいただけるパフェに醤油をかける」くらいの蛮行だと思っている、そんな自分の教育観でした。