教師として、自分はこれまで出会った生徒のうちの、誰か1人でもいいから、何かしら良い影響を与えることができたのかなと、ふと思うことがあります。
教師歴も数年で、小規模校での勤務が長かったことを考えれば、触れ合った生徒数自体はかなり少ないのですが、それでも、「あの先生のおかげで今の自分がある」と思ってくれている、そんな生徒はいたりするのかなという考えが、ふと頭を過ることがあります。
「承認欲求の一種なんだろうなきっと」と自覚はしているし、「教師一人が生徒の記憶に残ろうだなんておこがましい」とも思っているし、第一、そう考えること自体、自分の教育観と矛盾することも重々承知はしているわけで。
それでも、情をもった人間である以上、「とはいえね、とはいえ。どう思われているかはやっぱ気になるよね」というのが本音であったりします。
なんだかんだ幸せに暮らせている今の自分。
「教師」という職業の上に成り立つ「今の幸せ」という体で話せば、やはり大きなきっかけを与えてくれたのは中学時代の英語の先生なのは間違いないです。
過去のブログで、be動詞すらわからなかった真の英語嫌いの自分がどうやって英語を克服したかは言及したのでここでは書きませんが、あのときの経験がなければ英語の教師、というか教師になるという道は、将来の夢からは除外されていたのはほぼ確です。
そういう意味では、恩師には本当感謝しています。
大学で教育実習に行く条件を全て満たし、教育実習を4か月後に控えた大学3年生の春。
まだ教師になれたわけではないけど、確かなステップを踏めたということで、7年ぶりにコンタクトをとりました。今では「おいおい大丈夫かいそれ」と物議を醸す連絡網を、引き出しから取り出し恐る恐る連絡をしたあのドキドキは今でも忘れられません。
「もしもし、お久しぶりです。◯◯(自分の名前)です。」
と話すと、一瞬の間があったあとに、
「おぁ、あの◯◯(自分の名前)なのか。久しぶりだな!」
というやりとりがありました。
「実習・教採前に、ぜひ先生と食事をしたいと思って!」とストレートに食事に誘いました。食事のときに思い出話に花を咲かせながらも、しっかり感謝を伝えることができました。でもそれ以来、もう全然会えていません。結構がんばらないと会うことすら難しいそんな状況ですが(今では連絡先も知らないし)、直接、感謝を伝えられたのはお互いにとって良い機会だったと思います。
そういった実体験もあるゆえに、「自分は果たして生徒の誰かにとって、ありがとうと言ってもらえる恩師になれたのだろうか」と、道半ば思うわけであります。もちろん、恩着せがましい教育をするつもりは一切ないし、したこともないです。「将来、教え子に感謝してもらえるように動こう」という魂胆といいますか、そういった下心は当然ですが1mmもないです。たとえ教え子の結婚式に呼ばれても絶対参列しないと決めてますし。ただ、大事だと思うことを、無理のない範囲でしていくだけ。
それでも、「人生に影響を与えてくれてありがとうございます、先生、私は今幸せです」と言われたいと密かに考えている欲張りな自分に、なんとも言えない感情を抱いています。感謝される前提でいるのも何とも言えないですし。
というか、この先「先生、お久しぶりです。今度食事に行きましょう」と誘ってもらえるのかすら怪しいのに、教え子からの感謝を期待するなんて身の程知らずも良いところだよ、と自分に対してかなり辛辣です。