見つめている先が違うだけ

ふと、自分がなぜ教員を目指したのかを振り返ってみる。

 

1つ言えることは、高校生の段階では「絶対教員になってやる」とは1mmも思っていなかったこと。「教員も視野に入れておこう」程度です。本気で目指してたら確実に教育学部を目指していたはずなので。

当時は、漠然とだけど、出版社で働くことに憧れていました。いろんな参考書に手を出していて、たぶんその経験が出版社で働くという憧れを抱かせたのだと思います。そここそ旺文社とか、今学校でお世話になっているBenesseとかですね。

 

話は逸れますが、参考書一つに絞って勉強するのがいいのに、興味が移ろいやすくてね。いろんな参考書を買っては解いて、飽きて、また新しく買っては解くの繰り返し。

2週間経つと新しい参考書を開いてるもんだから友人もよく自分をいじってました。lこれで頭が良けりゃいいのだけどそんなことはなかったので、そりゃいじられるわな。

最後までやり切れた参考書はどのくらいあるかしら。

正しい勉強法を知ってさえいれば、、高校時代の後悔のうちの一つです。

 

話は戻って。

 

入学した大学では英語の教員免許も取れるとわかって、教職課程に入りました。

 

もともと教育には興味があったんだと思います。あと安定志向でもあるので、「となると、公立の学校で先生だな。中学校程度なら深い専門知識がなくてもいけるか」なんて、今考えればとても浅はかな理由で、中学校の先生を目指していました。

 

英語の先生になるなら、英語が喋れるのはもちろんだけど、日本以外の国に住んだという経験があった方が、生徒たちに胸を張って教えられるなと思いまして、20歳の誕生日を迎えてすぐ、大学を1年休学してカナダへワーホリに。

帰国して、「教える技術も磨いておかないとな」ということで、夏休みを利用してニュージーランドに2カ月ほど短期留学。TESOL(NZQA)という「英語を母国語としない人向けの英語教授法」について学び、免許?資格?をゲットしました。これだけでは雇われないと思いますが、一応ニュージーランドの語学学校などで英語を教えることができます。

 

そんな感じで武装して、教員になる準備はできていました。

でも、大学4年生の時に、教師が一方的に教えるスタイルに違和感を覚え、「違和感を解消しよう」ということで、しっかり吟味した大学院に進学を決意しました。教採1回目が不合格だったのも進学理由の一つですが。。

 

で、「英語を教えること」よりももっと大事なモンがあるじゃないか!となりまして、5年くらい前から、「英語<教育」に意識が向いてます。

 

だから、正直な話、「教員として、生徒にどう英語力を身に着けさせるか」という話にはあまり興味がありません。「将来、英語を武器にしたい人」「英語に少しでも興味がある人」が学べばいいと考えていて、「英語を全員が学ばないといけない」という教育現場の初期設定がバグってるよねとさえ思ってます。

「英語という教科でどれだけ多種多様な人間関係を生徒がつくれるか」「将来の幸せに向けて一つ一つの授業で何を語るか」が重要だよね、なんて。

 

そういう点では、「英語をどう教えるか」というテーマで、一般の英語教員とは話が合わないかもしれません。つい最近、「この方と分かり合うにはもうちょい時間がかかるかもしれない」「お互い見つめているビジョンが違うな」と感じる一幕がありました。

 

責める気持ちは一切なくて、時間の問題なんだろうなと思ってます。

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