負の価値観は健在、それでも。

英字新聞を購読して1年くらいになります。購読を始めたきっかけは、「今年から高校英語に本格的に携わるわけだし、英語に触れる機会を強制的に増やそう」でした。週1でポストに投函されるので、部屋に持ち帰って「毎朝30分読む」を7回繰り返していると、また次の週の投函日になって新しい新聞がポストに入ってます。

 

英字新聞といっても、単語の和訳注釈があったり、日本語だけで書かれた欄もあり、英語学習者向けの新聞ですが。

 

内容は時事ネタや海外情勢、日本文化、ビジネス用語や英文法の解説など、いろんなコーナーが設けられていて個人的には楽しく読むことができています。

 

いろんな内容が盛り込まれているわけですが、巻末に「この人にインタビューしてみました」みたいなコーナーが毎回設けられていて、ここは必ず読むようにしてます。

 

(インタビュー内容はもちろんすべて英語に翻訳されていますが)翻訳家、映画監督、文化芸能、CEO、非営利団体関係者など、今現在ご活躍されている日本人にインタビューをしているもので、こちらも読み応えあります。

 

本文に入る前に、ぼくは必ずページ上端にある日本語で書かれたプロフィール欄に目が行きます。何年生まれ、仕事は何をやっているかなどが100文字程度で書かれています。そして必ず「学歴」にも目が行ってしまいます。

 

高学歴、いわゆる旧帝大早慶などの大学群出身だとわかれば、「そりゃそうか、だから今こうやって活躍されてるんだろうな」と納得してしまう自分がいます。色眼鏡で読んでしまうせいか、そのコーナーの内容を終始「高学歴は違いますなぁ」という無意識をぶら下げたままインプットしてしまいます。

 

 

あれだけ「学歴がすべてじゃないよ」と思ったり言ったりしているのに、ぼくという一人称になると「学歴」をモノサシにして物事を捉えてしまうもので。

 

 

「人は簡単に変わらない」とはよく言ったもので、頭ではわかっていても、こびりついた「学歴重視思考」は剥がせないもので。「小学生のときは足が速ければモテる」という半分神話、半分事実を信じて疑わないあの確信に近いですもん、この思考は。

 

小学生のときなら「附属中が良い」、中学生のときなら「地元の御三家を目指せ」、高校生のときなら「難関大しか勝たんよね」、大学生のときなら「大企業で人生安泰」といったような価値観が蔓延った環境で育ってきたもんだから、そういった一種の洗脳から抜け出すのは容易いもんじゃないよなと今痛感してます。

 

 

学歴は一つの基準になるとは思います。それこそ、難関高校や難関大学を出ているとなれば、「合格を勝ち取るために費やした努力」は評価されるべきだし、「努力しなくても合格できた天才」といったものもあらゆる面で判断材料になるのも間違いないです。

 

でも「幸福」とか「豊かな人生」とか、そういった抽象的な良いものに到達することを目的にした場合、学歴は必須じゃないとは思ってます。結局は「コミュ力」がものを言うと思ってます、あと何かしら尖がった能力も可能なら。

 

なんて書くと、「いまだ学歴に目が行くお前が何言ってんだよ」とツッコみたくはなりますが。

 

それでも、そんな自分でも、せめて自分の子どもには、「将来、あくまで自分がやりたいことを最優先にな、学歴に目が眩むなよ」とは伝え続けたいです。その前提で、それでもどうしても学歴が必須となる状況に出くわしたならば、それは悪いことではないからその学歴獲得に向けて動きなさいと助言するような気がします。

選択の自由は尊重したいですし。

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