変わるけど変わらないもの

今日のブログは、「明日は疲労でブログを書く気力がないだろう」と昨日の段階で判断したため、昨日書いたものです。といっても、常日頃、頭の中に思い浮かんでいることを文字でアウトプットしただけですが。

 

3月も2週目。

3年生の大学合否の結果がわかり始める時期です。

肌感、今年は「豊作」といいますか、3年生の先生から入ってくる情報的に、国公立の合格者がバンバン出ているようで。自分が担当した生徒も、高倍率をなんとか潜り抜け合格したそうで、嬉しい限りです。

 

一方で、やはり、心の底から喜べていない自分がいるのも確かでして。

 

1年を通して3年生の授業に出ていないというのもあるからでしょう。若干冷たい表現になりますが愛着が持てていないからだと思います。「他所の子よりやっぱり我が子が一番かわいい」と感じるあの感覚に近いんじゃないでしょうか。関りがないと生まれない感情はどうしようもないです。

 

心の底から喜べない理由はそれだけか、と冷静に分析したとき、「国公立大学合格が果たして人生の幸せなのか?」という疑念がどうも原因っぽくて。

「大学行きゃあどうにかなる」という生ぬるいキャリア教育にはいい加減嫌気がさしていて、アカデミックだけじゃなく、職業的で専門職的なキャリア形成にも「進学校」と呼ばれる普通科校は力を入れるべきなんじゃなかろうかと思うわけでありまして。

 

個人的には、生徒一人一人の目標に寄り添った学校を理想としているし、本来はそうあるべきですが、いろんな柵があってそうじゃないのが実際問題。

 

なもんで、進学校としては「どれだけ国公立大学または有名私大に入れれるか」に意識がいってしまい、教育本来の目的である、「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」から離れてしまいます。「子どもたちの幸せ」は二の次で、「大学進学」という次元の低い目標に満足する構造になっています。

 

ぼくもそのうち3年生を担任としてもち、共に受験対策を乗り越えて生徒の合否に一喜一憂してしまう瞬間が必ずやってきます。これは避けられないと思ってます。今の3年生の先生を見ていると、生徒の大学合格の報告を受けて「嬉しそうだなぁ、いいなぁ」と、3年生の担任をもちたい気持ちが日々強くなっていってるのも確かでして。

 

それでも、「教育ってなんだったっけ?」という原点は忘れずにいたいです。

心だけは変わりたくない。