持続的で自然的な教育

教師が授業力の技術をせっせと磨く目的があんまりピンときていません。

 

理由は自明で、他の教員は、「教師が」教える前提の授業観になっているからだと思います。ぼくは、「生徒同士が」教える前提の授業観が基盤になっているため、そりゃ考え方や動きが合うわけなくて。

 

インターネットで探せば教え方がうまい講師はいっぱい出てきます。

 

画面上なのでわからないところがあれば「巻き戻し」をすることができます。ん、ビデオじゃないから巻き戻しって表現はちょっと古いのかしら。ま、5秒前とか1分前など、戻りたい箇所にパッと戻ることができます。

 

画面上の先生は本当教え方が本当にうまい。

一時期、独学で物理を習っていたのだけど、いろんなコンテンツを漁っては視聴し、モーメントの学習範囲をなんとか理解することができました。ただ、わからないところを聞く人がいなかったので、しっかり理解できているかと問われれば怪しいですが。。

 

コンテンツを観まくってわかったのは、凡人がすぐにたどり着けるレベルじゃないのは明らかでした。かなりの努力が必要でしょうし、なんなら才能の部分がでかい気もしました。

それなのに一般の教員が教えるプロに食らいつこうと必死に「教え方」の勉強会に参加し、習得した少しの技術を授業で披露する。

 

冒頭でも書きましたが、「教師が教える」という前提(教育観・授業観)をぼくは持ち合わせていないので、授業関係の勉強会は大学院に入ってから一度も参加したことがありません(大学3年生のとき、高い金払って短気留学をし、英語教授法のコースへ行き資格を取得しましたがそれが最後)。

 

 

そうなった理由は主に2つ。

凡人の自分がたどり着ける領域じゃないとどこかで痛感したこと。このままカリスマを追い求めて自分は何になるんだろうと。むしろ、画面上のプロに授業はお任せした方が子どもたちの学習を考えたとき、絶対効率がいいよなと。「強者にあやかる」方が断然良いという結論に至りました。

 

それと、一人一人の理解力が違う集団が教室にいるわけですが、教師一人の教え方で授業を成立させる(みんながわかったという状況をつくる)のは、どう考えても無理なことに気づいたこと。

どの先生もきっと心のどこかで気づいているはずなんですよ。一斉授業で子どもたちみんなが理解するのは無理だってことを。それなのにそのスタイルを続ける理由がぼくにはやっぱり理解できません。「なんでなの?」と聞いてそれっぽい理由を聞けたとしてもきっと納得できないと思います。

「いや、そうじゃなくてですね、」「ならなおさらさ、」と水掛け論になりそうです。

 

それに、仮にカリスマレベルの授業力を身に着けたとして、「あなたの後釜はいないけどどうするの?」とも思う。あなたがいる間はいいかもしれないけど、あなたがいなくなったあとは同じような歯車はないから機能しなくなるけど、それでもよろしくて?なんて思う。「多様性」と言われたら「まあそうなんだけどさ」と引き下がりますが、それでも引っかかる。「持続的で自然的な教育が良くない?」て。

 

授業力の技術アップに努める先生を見ると、どうしてもモヤモヤする年の瀬。

 

別にそういうシーンに最近出くわしたとかじゃないんですが。

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