削れて無くなる前に

教師が、一人の生徒の人生を良い方向に変えることは、可能ではあるし、自分もこれまでの教員人生で「変えた」という経験があります、でもたったの何人かでしかないです。

 

これまでいろんな生徒と関わってきたというのに、それなのにたったの「何人か」という、どうしようもない少数。

 

というか、「何人か」という数は曖昧だし、むしろ盛っているようにも感じられます。強いて言えば1人くらいな気がします。

 

いや待てよ、「1人の生徒を変えた」という発言すらなんだかおこがましさを感じるなぁ。ぼくなんかが根本的に変えれるわけないよなぁと。

 

結局のところ、ぼく一人の力では、生徒を「まだ」変えたことはないし、「これからも」変えることはできないんじゃないかなと今では思ってます。

 

教師という仕事の中では、担任クラスや教科担当のクラス、部活等で、いろんな生徒と関わりを持つのだけど、案外、生徒を根本的には変えられないんじゃないかって強く思い始めている昨今。

それゆえ、カリスマ教師で評判の先生を目にすると少し冷めた目で見てしまいそうになります。「本当かよ」と。

 

「じゃあ何も変えられないのか?」と問われれば、それは「そうとは限らないのだけど」と反論します。

生徒集団内の関わりであれば、特定の生徒が変わる可能性が、教師のソレよりかは高いんだろうなぁとは思ってます。

 

昨日の講演で西川先生もお話しされてたけど、「西川ゼミ生内のトラブルには私はノータッチ。自分が動いたところで問題を変えれるもんではないから。それにそのトラブルを知ってしまったらそれはそれで精神的な負担になるから、ぼくは見ないようにしているし、関わろうとも思わない」的なことを聞いて、「昔からそうだったよなぁ」と思い出す。

もちろん、なかなかにセンシティブでアンタッチャブルなトラブルがあったときは、先生に相談し、関係のある学年ゼミ生を1つの部屋に集め、事を丸く収めてもらいましたが。。

 

今現在担任クラスや授業担当クラスで、特別大きな問題が起きているわけではないですが、これからの長くなるであろう教員生活で、必ずやトラブルが舞い込んでくるはずで、そのときの立ち振る舞いをどうしようと考えているところでした。

 

そんなときに例の「教師は生徒を変えられない。でも、その子が属する集団には、その子を変える可能性が教師よりかはある」という言葉を聞いて、ハッと何かに気づかされる。

人と人が関わっていれば、その数だけトラブルは生じるわけで、そんなバカみたいな数に一人の教師が首を突っ込んでは「なんとかせねば」と奮闘したところで、精神がすり減って、削れて無くなってしまうじゃないかと。

 

生徒集団との距離感とか、生徒集団への委任とか、そういったものをもっと考えていこうと思います。

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