挫折が必要という教育観

午後は部活があったので学校へ。

職員室にも寄りましたが、先生はやはり少なかったです。

自分が所属する学年の先生も、7割ほどは休みに入っている模様。

先生たちの冬休みが始まっているんだと実感。

 

20分ほど仕事をし、そのまま体育館へいきました。

部員らと部活を一緒にして軽く汗を流す。30手前ですが、まだ全然動けそうです。なんなら、比較する相手が間違っているのかもしれませんが、部員である女子高校生よりも疲れにくい体をもっている自信があります。

もっと自分を追い込めたらなと思いつつも、「こんな甘ったるい練習じゃ満たされないよ!」と彼女らに言ったところで、公私混同と言いますか、自分の基準を相手に押し付けているような気がして、言えません。

 

「30歳の壁」というものがあると聞きます。いずれ自分の目の前に立ちはだかるのだと思われます。跳ね除けられるように自己管理をしっかりしていこうと思います。

 

そういえば、英検が来月ありますね。

かなりの生徒が受けることを知っているので、冬休み期間ではありますが、「ライティングの添削をするよ」とClassroomに投げかけました。

 

これが残業とか義務だとか1mmも思っていなくて、「生徒の英語を添削しつつ自分の英語を鈍らせたくない」というエゴが働いたのと、あとシンプルに、「どのくらいの生徒が依頼するのかな」という興味が勝ったのが理由。

 

4日前に、「27日のO:OOまでに提出してくれれば、ChatGPTとコラボして添削しますよ」と全体に向けて投稿。精度の高い添削ができるとも伝えました。生徒にとっては得でしかないはず。

 

現時点で2名からしか添削依頼が来てません。

まあ、こんなもんなのかもしれないですね。

もっと来ると期待してたので、ちょっと残念。

 

みんながClassroomを見ているわけではので(生徒全員登録しているしグループにも例外なく入れているのだけど)、届かない人には届かないのかなと。

 

チャンスが目の前に確かに転がっているのに、わざわざ自分の手で拾わない生徒が多いんだろうなと思ってます。こういうとき、決まって「あぁ忘れてましたぁ!」「やろうと思ってたのですが、できませんでした」という声が後日届きます。

で、良い結果を残せないで終わるのがテンプレートだったりします。

 

でもそういう人には、どうしても塩対応をしてしまいます。

「いろんなチャンスをぼくはこれまでばら撒いてきたけど、振り向かない・拾わないという選択をしたのは自分じゃんか」と内心思うわけであります。

「ま、ドンマイ」と切り捨てます。

 

「甘い選択ゆえに生じた苦い経験を通じて、変われ」というぼくの教育観。

 

とことん後悔して、とことん絶望しないと、人間って変わらないよなと思ってしまいます、ちょっと厳しい考え方かもしれませんが。

もちろん集団に属してて「自分は変わらなきゃ」と感じる場合もあります。もちろんそうじゃない場合もあります。

 

ぼくは教育者として、「挫折の場」を無意識的に設けているのかもしれないと、なんとなく感じ始めている昨今。

挫折経験がない子供への<<親のサポート法>> さん