どうしようもないことを楽しむ

ふと「脳内メーカー」というワードが頭にポッと思い浮かんだので、十数年ぶりにやってみました。2024年の自分は「遊」で埋め尽くされていて、まあ、その結果はあながち間違ってはいないよなと思う。

「遊」の意味通り、「人間が心のおもむくままに行動して楽しむ」ことを日々堪能できているので、「脳内メーカーだなんて、デタラメだよこんなの」と一蹴するのは早計ですよ、とさえ思えるくらいに心にゆとりがある4月中旬。

 

そういえば、高校生時代、まだガラケーでモバゲーとかグリーに没頭していた頃、脳内メーカーに自分の恋の行方を委ねていました。完全に委任していたわけではないですが、「あの子のフルネームを打ってと、、さて、どんなもんかな!」と、恋占いをしていたのは遠い昔の話でして。

 

その子の脳内が「愛」だの「恋」だの、それこそちょっと破廉恥な一文字がそこに書いてあれば、「これって自分のことを思ってるってことかな?!」と真に受けては自己解決し、自分のメンタルを良い方向に持って行っていたあの頃が結構好きだったりします。

 

あの頃の自分が、純粋にバカで、淡くて、単純で、可愛くて、愛おしくさえ思えます。

「たかがこれで、されどこれで」、自分の高校生活の青春の一部を彩っていたのだから感謝してます。脳内メーカーのし過ぎで、携帯にその月の通信制限がかかっちゃうくらい愛用してました。

 

大人になった今なら、「どう?ぼくのこと好きっしょ!いや、好きであってほしい!頼む!」と、冗談混じりで、捨て身で、でもシュート気味のストレートで感情を伝える高度なテクニックを持ち合わせているけど、あの頃はナヨナヨしていて、「若いなぁ、青いなぁ」と思う。

 

 

ところで自分の過去を振り返って、ふと思ったのは、令和に入った高校生には、こういったしょうもないことに一喜一憂する瞬間があるのかどうかだったりします。脳内メーカーみたいなうさんくさいものには時間を割かず、わりと現実的なのかしら。

 

老婆心で片づけるのもなんか野暮なので少しだけ書いてみようかな。

 

しょうもないことに一生懸命になって、みんなでバカ笑いし合うシーンを見る機会がなかったのが昨年度。生徒の休み時間中などにわざわざ職員室を出てうろちょろしないので、見るも何もないのですが。帰り道も一緒。生徒同士のそういったシーンを見ることはありませんでした。

 

生徒たちは、教師を怒らせない程度に羽目を外すことをしているのかな、なんて教師の自分が心配したりしてます、おかしな話ですが。その中に案外おもしろいモンが詰め込まれているのになぁと。

いや、きっと、生徒は生徒で、教師の見えないところで、いろいろ楽しんでいるのだろう。ただ、その楽しみ方の形が昔と変わっただけ。きっとそう。何も心配する必要はないか。

 

学校という場所は理不尽な制限の巣窟ではありますが、だからこそ、生徒からしたらおもしろい場所にする甲斐があるんよね。