『子ども未来フォーラム』に参加して

昨日は午前の勤務を終えたあと、市主催の教育フォーラムに参加しました。

 

基調講演では苫野一徳先生のお話を聞くことができました。

「そもそも学校は何のためか?」について掘り下げ、「よい学校とは何か」について考えることができました。

 

自由の相互承認の感度を育むことを土台に、自由に生きるための力を育むことを目的とした機関が学校です。本来はそうあるべきです。でも、これまでに自分が利用者(児童/生徒)として経験した学校、そして、これまでに自分が従事者(教員)として携わってきた学校は、自由の相互承認からかけ離れたことをしていたなぁ、あるいはかけ離れていることをしているなぁと、つくづく実感。

ヘーゲル曰く、民主主義の根本原理は「自由の相互承認」で、お互いを対等に「自由」な存在として認め合うことをルールとした社会だそうで。

 

でも現状、学校では教員ー生徒(集団)との本当の意味で対話が為されていないです。「あれはダメ」「これはしなさい」で満たされた文化が蔓延っていて、教員である自分自身も心苦しい状態です。窮屈すぎて。

『エミール』の著者であるジャン=ジャック・ルソーは、本でこんなことを書いています。

 

「あれしなさい、これしなさい、あれするな、これするな」とばかり言われて育った子どもは、そのうち「息をしなさい」と言われなければ呼吸さえしなくなるだろう

 

もし、教員になる前にこれを読んでいたら、「なんて大袈裟な」と思っていたでしょう。でも、教員としていろんな子どもたちと接していくうちに、「いや、当たってるかも..」と感じる昨今。「言われないと動かない」子が多いように思えます。「自分で考えてみて」に対して「えぇわからない」と思考することを拒否する子もいます。

 

「信頼して、任せて、待って、支える」

 

この教育の基本を怠った結果がこれなのでしょうか、なんて深刻に考えています。

 

「子どもたちが変わってしまったんだ」と悲観している自分含めた学校の先生。でも、時代の流れに沿って変わるのは自然の摂理だし、それを順応と呼ぶので、子どもたちはまったく悪くない。むしろ、時代の流れに沿って一緒に変わっていかなかった教育システムの欠陥に原因があるんじゃなかろうかと。そして「なんでぼくら大人は変わっていこうとしないの?」という思いが、どうやら自分を苦しめているようで。

まずは大人(教員)が変わらないとね。

 

 

苫野先生は、「対話の重要性」について何回も強調されていました。どの集団にも、対話の文化と仕組みが大事だと。

教員間では、どうだろう。会議とかを除くと、あんまりない気がします。頻度が少ないし、一方的なピッチング練習的対話(相手がブワーと持論を展開)になってるし、対話の相手も限られていて、決して広くはないです。自分の思いや考えをフランクに共有する場が少なすぎて、不満だけが降り積もっていくシステムになっています。ここを変えれば、個人的には急激に学校が変わる気がしています。

「本当はこう感じているんだけどさ」がお互いに言い合える場所と時間..

 

そうそう、フォーラムの中で気になる学校が飛び込んできました。

「多様性がもっとごちゃまぜのラーニングセンター」で、福島県大熊町立 学びの舎ゆめの森という、福島県にある「0歳から100歳以上までが学び合う公立学校」とかなんとか。

manabiya-yumenomori.ed.jp

自分が理想とする学校に近く、この存在を知れてワクワクしています。「公立なのにすごいな!」と。今年の9月頃に福島を訪問する予定があるので、そのときにでも学校見学をしてみたいです。もしその予定がなくなっても、計画を立ててこの学校には必ず訪問しよう。

 

 

それにしても、学びの多い時間でした。