形式的な学問のその先

明日から中間考査が始まるわけですが、「昨日、O時間勉強しましたよ!」と報告してくれる生徒がいました。「偉いなぁ」と思う半面、「とはいえ時間じゃくて結局は結果であり、点数だよなぁ」と思っているので、ついつい「じゃあ結果を期待しているね」と声をかけました。

 

若干困ったような顔をぼくに見せたので、ちょっと怪しいですが。

 

こういったテストで測れるものってなんだろうなと考えると、「どれだけ日々の授業内容を理解しているか」が先に頭の中に浮かびます。

そりゃそうで、本当の意味で理解していればすらすらと解けますし、理解していなければ筆が止まる。至極当然なわけで、ここに異論はないと思います。

 

このほかに何かないかと改めて考えると、「高い点数(目標点数)を取るためにどれだけ戦略的に勉強できているか」という効率性とかバランス性とかも関係するんじゃないかと思ったりもします。

 

自分をどれだけコントロールできているか、みたいな。

ほら、誘惑とかあるじゃなないですか。誘惑に負けて勉強と向き合えているかとか。

 

と書きつつも若干、無理やり合理化してしまっている自分の存在も否めませんが、こうでも書かないと、もとい言い聞かせないと、定期考査の存在意義をどう認識していいかわからなくなる自分がいるので、しょうがない気がします。

 

ただ、「戦略的に進める学問の先」はどこか空っぽ感があって、それでいいのかしらと心配になる一方で、「そんな形式的な学問でも、あとでなんだかんだでいろんな要素が有機的につながって、新しい何かを生むんじゃないかしら」という浅はかな期待もあったりして、答えは出せないのですが。

 

「全ての人が同じことを学ぶ」ことを強制させられているからこそ、世界的に見て日本は平和なのか、それとも「全ての人が同じことを学ぶ」を強制しなければ日本はもっと平和になるのか、果たしてどんなものなのかなと最近は思っていたりします。

 

呪術廻戦で夏油傑が五条先生にかけた「五条悟だから最強なのか、最強だから五条悟なのか」的な問いに似てますね。まあまあ言うてますが。