「生徒には厳しくすべきか否か」的な内容で、一人の先生とプチ議論をしたことがあります。
でも、「厳しい」にも種類があるよなぁと今、ふと振り返る。
「服装」「言葉遣い」などに対して厳しく指導をするのか、「締め切り重視」「結果重視」的な意味で厳しくするのか、みたいな感じです。
ぼくは断然後者です。
厳しくすると言っても、声を荒げて叱り飛ばすことは絶対しなくて、「結果を出せばそれでいいよ」と、穏やかな口調でスーパードライなことを言う、そんなスタンスです。
それに伴って、「自己責任」も教育としてはアリだと思ってます。
学校教育における「自己責任」とそれによって起こる「リスク」も考えられるわけですが、正直、ほとんどが「大したことない」「どうにでもなる」ものです、社会に出てからのソレに比べると。
学校というフォローできる環境下で、自己責任の名のもと、生徒はたくさんもがいたり、悔しがったり、泣きそうになったり、イライラしたりするべきだと思ってます。本当の意味で「人生詰んだ」となるレベルの自己責任は避けるべきだとは思ってます。
例えば、「申し込み不備で大学受験ができなかった」など。
そうならないようにするために、細心の注意は払います。
でも、それに匹敵しないレベルのこと。
あまり良い例が思い浮かびませんが、、「模試の志望校調査でマークシートをうまく塗りつぶさなかったため、判定結果にうまく反映されていない」など。
これは「良い教訓になったね」「マークは丁寧に、と言われる理由はてこういうこと」「今回、正確なデータが出なかったから、進路の話し合いどうしようかね」と、「自己責任」を突き付けることができます。もちろん事前に注意喚起あるいは個別に呼びかけてもそうなったのなら、もう個人的には「シメタ!」と膝を打っちゃいます。「こんくらいのインパクトがないと人は変わらないよね」と。
正直な話、時期にもよりますが、1回くらいのデータが取れなくても、「オワリ」なわけがないですし、そもそも模試の結果なんて、あくまで目安。
模試の結果が良かったのに受験で大コケなんて全然あり得る話ですし。
そういう失敗や自己責任は、遅くとも高校生の段階からどんどん突き付けたいと個人的には思ってます。もちろん生徒のメンタルがやられないように声かけをしながら、というか教師だからそこはできる必要がありますが。
そういう自己責任から、人は強かに成長していくものだと思ってます。
もちろんなんでもかんでも「自己責任」で片づける気はないです。
と語っても、「それじゃ生徒がかわいそう」「先生が可能な限りフォローするべき」と異を唱える先生もいるので、そういう人とは「なるほど!」「たしかにかわいそう!」と納得したフリをしますし、それ以上、議論を深めません。「きっとこの先も分かり合えないんだろうなぁ」と先が見えているので。
一定の距離を置くのがお互いにとっての最適解だったりしますしね。