今日は卒業式でした。
巣立った3年生との関わりは、部活(2カ月ちょい)と大学受験対策(1カ月弱)くらいなもんで、思い入れとかは正直なところないですね。冷たい表現かもしれませんが、事実ではあります。
授業とかに出ていればまだなんかあったと思うんですが、あまりにも関係が薄すぎる。これはしょうがないことです。
なもんで、「寂しい」といったような感情は一切ないです。
「部活に所属していない帰宅部の在校生と3年生」くらいの遠縁。でも、その感覚に限りなく近いです。
それでも、卒業式を迎えればなぜか自分事のように捉えることができるもので。めでたいことだなと、心から思えるのは嘘ではなくて。
とりあえず、卒業おめでとう。
教員人生、まだ1度しか卒業担任を受け持っていないです。
あのときは、卒業式時点では「やりきった感」で満たされていて、彼らが卒業した数日後に急に「寂しい感情」がブワッと湧きだしたはず。たった3人の生徒だったから余計にね。ただ、行き着いた感情は、それ以上でもそれ以下でもなくて、そこにはこれといった特別な感情はあったのか、はっきりとしていません。
自分でも自覚はしているのですが、ドライな部分があります。
一般的に引きずるべきことを引きずらずに、「さ、次いこ」と切り替えるし、みんなが悲しみ合ったり喜び合っているときに、別の作業をしたりする。
「みんなと同じことを共有する」ことに、時折「染まりたくない」という感情に駆られるのです。反対に、どうでもいいところで感傷的になったりして、非常にめんどくさい男なんだなぁと認知しております。
さて、自分が一般の高校生を卒業生として受け持ったとき、果たしてどんな感情をもつのでしょうか。今度は1クラス数人ではなくて、40人近くです。新しい感情が芽生えるのなら、それはそれで楽しみ。ま、今の勤務先で卒業生を受け持つのは、いつになるのかはさっぱりですが。
せっかくですし、ついでに過去の回想でもしておきましょうか。
11年前の今日、ぼくは高校を卒業しました。
まだ、二次試験の結果が出ていない状況で(結果発表は卒業式の6日後くらい)、ものすごく不安な日々を送ることが確定していました。
卒業式のことはさっぱり覚えていません。
親が来たのかさえ。
第1体育館をどんな風に入場したのかさえ。
国歌と校歌以外に、もう1曲何を歌ったのかさえ。
最後に教室で担任が何を話したのかさえ。
卒アルの最後のページに誰に何を書いてもらったのかさえ。
誰と話したかさえも覚えていない。でも、ピカチュウと呼んでいたクラスメイトとは話した気がする。
あと、ラグビー部の後輩たちと帰る前に戯れたのは覚えている。
そんな感じ。
卒業式って、案外記憶に残らないものなのです。